長崎県立瓊浦中学校(『原爆被爆記録写真集』より)

●爆心地の西南約800mの所に長崎西高等学校があります。ここには戦前戦中、旧制の長崎県立瓊浦(けいほ)中学校がありました。1922年に創立されましたが、原爆により木造2階建ての本館と別館が倒壊、新築校舎は全焼しました。

 被爆当日、校内には数川与五郎校長はじめ、教職員、生徒ら61人がいました。そのほとんどが爆死、その他もその後死亡し、校内では数名だけが生き残りました。また長崎市内の軍需工場へ動員中の者も含めると生徒387人、教職員16人、用務員2人、計406人が死亡しました。死亡した生徒の中には、中国、台湾、朝鮮等の在留者の子弟、いわゆる大陸生学級の生徒達も含まれていたのです。

 戦後、学制改革によって、瓊浦中学校は新制高校へ移行、県立長崎西高等学校へと引き継がれました。

 1971年8月8日、瓊浦中学校同窓会により、創立50周年記念をかねた慰霊碑「不撓不屈」(ふとうふくつ)が建立されました。その碑文には、次のように書かれています。

 「この幾星霜の間に故人となられた恩師同窓会原爆死没者、また戦争で散華された方の慰霊を兼ねて本記念碑を思いで深いゆかりの地に、われら同窓生一同、母校への愛着を結集して建立し、永遠に母校の名をここに記念する」

●証言

 「足をすくうような強風に押し倒され地面に伏せた。砂が鼓膜を破りのどを突き抜けるように飛び込んでくる。‥‥‥体は地面から持ち上げられ、頭を中心に左の方に急回転した。‥‥‥バサーッと重たい物が腰から下に落ちてきた。
『しまった‥‥‥やられた』と思った。」

(当時、瓊浦中学校教練助教、山本和明さん)