鎮西学院(原爆被爆記録写真集より)

●浦上川に沿って歩き、活水下バス停のそばの長い階段を上ると、活水中学・高等学校に着きます。鉄筋コンクリート4階建ての1号館(1929年建設)は4号館に並行して建っています。この1号館校舎は、戦前はここにあった鎮西学院の校舎です。鎮西学院は1881年創立の男子ミッションスクールで、戦時中は宗教行事の礼拝さえ禁止されていました。

 被爆当日、1号館校舎と体育館は三菱製鋼所・三菱電気製作所の工場として使われており、校舎内に職員・学生20人、学徒・工員など87人、校舎の外に11人、合計118人いました。そのうち犠牲者は103人でした。体育館と校舎は全焼しました。鎮西学院の生徒は129人の犠牲者がでました。 

 戦後、鎮西学院は諌早市に移転し、長崎市内の女子ミッションスクールの活水学院がこの場所に移転してきました。

 東門脇の植え込みには、最近掘り起こされた旧鎮西学院の校訓碑と千羽鶴を捧げるフレームが建っています。爆心地の近くの被爆建造物では、この活水高校の1号館校舎だけが現役の被爆建造物になりました。

証言
「まさにこの世ながらの地獄である。”War is hell!”(戦争は地獄だ)」

(鎮西学院教頭 千葉胤雄先生の日記より)