銭座国民学校(原爆被爆記録写真集より)

●被爆当日、馬場虎記校長だけが学校におり、他の教職員は長崎医科大のグランド付近と西郷にあった学校の畑に出掛けていました。児童の登校はありませんでした。

 原爆により木造校舎は全壊、コンクリートの校舎は外壁だけを残して全焼しました。

 畑で作業していた教職員は全員死亡し、児童は850人のうち約500人が自宅などで死亡したと推定されています。

 終戦後、稲佐国民学校で授業を再開したが、登校した児童は40人ほどでした。1948年にもとの銭座小学校に戻りました。