〜キリシタン殉教と原爆廃虚〜

●浦上天主堂は爆心地の東北約500mの地点に建っています。

 1865年、当時フランス寺と呼ばれていた大浦天主堂が完成、これを見物にきた浦上の「潜伏キリシタン」たちとプチジャン神父が出会いました。それは「信徒発見」という歴史的事件になりました。1867年、浦上の信徒達が仏式の葬式を行うことを拒否し、400戸の村民がキリシタン信仰を表明、壇那寺(だんなでら)の聖徳寺との縁切りを申し出ました。そこで驚いた長崎奉行は、信徒68人を検束、桜町の牢屋に投獄しました。こうして”浦上四番崩れ”が始まったのです。しかし、その3ヵ月後、明治維新によって徳川政権が崩壊、代った維新政府は弾圧を継続、1868年4月、浦上一村総流配(そうるはい)が決定されました。

 こうして捕えられた約3400人の信徒は、名古屋以西の21藩に分けて流されましたが、1873年、ようやくキリシタン禁制の高礼が撤去され、信仰の自由が認められました。しかし、この間に転宗を強いる拷問や虐待、苦役や飢餓により613人が殉教し、残り1900人程は迫害に耐え、信仰を守り抜いたのでした。浦上のキリシタンは、この”四番崩れ”の流配を「旅」と呼び、その旅から帰ったときの浦上はまさに”荒野”と化していました。

 原爆はもう一つの試練、”浦上五番崩れ”だ、と語られたのでした。後年、『五番崩れ』という本も書かれました。(永見津平)

 1880年信徒達はかつて「絵踏み」の行われた浦上山里村の旧庄屋、高谷屋敷跡を買い取り、30年もの勤労奉仕と献金活動によって、ついに1914年3月、石と煉瓦造りのロマネスク式聖堂を完成させました。しかし、この大聖堂も1945年8月9日の原爆により壊滅し、参堂していた信徒30数人が全員即死し、1万2000人の信徒のうち8500人が被爆死したといわれています。


廃墟と化した浦上天主堂

 この浦上天主堂の廃虚は、広島の原爆ドームとともに、原爆の威力と悲惨を物語る長崎の代表的な原爆遺跡として注目されていました。原爆ドームと同様に、平和祈念のシンボルとして永久保存しようとする被爆者と市民の声は高かったのですが、破壊がすさまじく

 保存が困難であるなどの理由で、1958年4月ついに全面撤去され、長崎はこの歴史的な”証人”を失ってしまいました。

 

 


浦上天主堂鐘楼ドーム

〜爆心地から約500m〜


天主堂の北側を流れる川の川べりに、美しい鐘の音を響かせていた 鐘楼ドームが、半ば埋もれた姿で倒れています。直系5.5m、重さ30トン。このドームが、35mも吹き飛ばされたのです。原爆の威力のすさまじさを物語る貴重な資料として、現地保存されています。