●浦上川沿いに南の方に歩き、梁川橋のたもとにある梁川公園までくると、公園の背後の丘の上に淵中学校が見えて来ます。1992年に建てられた校舎です。旧校舎は1940年に建てられ鉄筋コンクリート3階建ての本館、L字型の木造2階建ての校舎、中庭には鉄筋木造の体育館と木造平屋の建物がありました。1945年5月には教員も生徒(国民学校高等科1、2年生、今の中学1、2年生に当たる)も軍需工場へ動員されており、学校教育は完全に停止していました。

 被爆当日、校内には三菱電気と三菱造船所の工場が移転していて、68人が作業をしていました。そのうち教職員が2人と工員15人が焼死しました。動員先や家庭での職員、生徒の死亡者は138人でした。そして原爆により、本館校舎は全焼、体育館は骨組みだけになり、他の木造校舎と平屋の建物も全焼、崩壊しました。1946年3月の卒業式は、窓もなく焼けただれた校舎の中で行われました。翌年の4月、新学制により淵国民学校は長崎市立淵中学校と改称されました。

淵国民学校(原爆被爆記録写真集より)


旧体育館外壁遺構

●正門のすぐ右脇には、1984年の建て替えの際に保存された旧体育館の外壁遺構が展示されています。原爆の熱線で一部炭化した木材が見えています。

 また、正門から入って右手の「つどいの広場」には、『平和の輝生』と題する卒業生一同からのモニュメントや、1992年の校舎建て替えの際に保存された旧校舎玄関支柱と門扉が展示されています。広場の右手奥にある『職員児童戦災死者之碑』(1946年7月20日建立)の右側には「汽車の警笛茂麦の丘に響くのみ」と刻まれています。