城山国民学校(『原爆被爆記録写真集』より)

●1923年、九州でも唯一の鉄筋コンクリート3階建ての校舎として創立された大変モダンな建物でした。1941年4月、国民学校令で「城山国民学校」と改称しましたが、この頃の児童数は約2000人で、マンモス校でした。原爆投下の日、学校内および運動場付近には教職員32人、三菱兵器製鉄所の所員や動員学徒ら合わせて158人がいましたが、生存者は20人(そのうち横穴式防空壕内に11人)という惨劇でした。また、校庭で作業をしていた17人の教職員は全員死亡しました。当日は夏休み中で児童は登校しておらず動員先や自宅などで被爆し、児童数推定1500人のうち1400余人が死亡しました。生き残ったのはわずか5人の職員と100人たらずの児童でした。

●証言

 「グワグワーッ....... 。大型爆撃機が急降下して、窓から私の頭に突っ込んで炸裂した、と思いました。とどろく大音響と同時に、全身を引き裂かれるような熱い激しい痛みを感じ、とっさに直美の上に覆い伏せていたのでした。

 校舎がガラガラッと崩れ落ちて、煙幕のような黄土色の灰燼(かいじん)に包まれ、不気味な地鳴りさえ聞こえてきました。私は不安と戦慄の中で髪はさか立ち、鬼の子のように血だるまになった直美をしっかりと抱きしめ、無意識のうちに保健室からはい出していました。

 正門のほうから、荒川教頭が左右にだれか判別のつかないようになった女の人をつれて私の前を通られたので、声をかけようと思ったが、どうしても声にならないのです。」

(「城山小学校壊滅の日」江頭千代子先生)


「少年平和像」  (正門を入り中庭中央)

●1951年8月8日建立、除幕。作者は郷土の彫刻家・富永直樹氏。像は少年の等身大になっており、左腕に鳩を止まらせています。原爆で父と母を失った5年生の男の子です。同校の児童たちが、平和を希求して健気(けなげ)に起ち上がろうとする姿を形どったもので、被爆地の児童を象徴して上半身は裸、そして父のズボンをはき、裾(すそ)をまくりあげ、ベルトの代わりに荒縄をしめ、素足で雄々しく立っています。

 水平に上げた左腕は少年の夢を託した平和の鳩、足下の鳩は爆死した人々の魂の安らぎを祈る鳩です。台座の「平和」の2文字は、小学1年生の時に浜口町で被爆し、奇跡的に生き残った菅原耐子(すがわらたえこ)さんによるものです。毎年、8月9日には学校あげての平和祈念式が行われ、少年平和像へ花束が供えられています。


「嘉代子桜」 (校庭東側から南側へ)

●1966年3月植樹 同年7月30日碑建立当時、県立高等女学校4年生だった林嘉代子(はやしかよこ)さんの死を偲んで、母・津恵さんが嘉代子さんが好きだった桜を選び、「死んでいった女学生たちの魂がきっと立派に育ててくれる」と念じながら学校に苗木を贈りました。その苗木が成長した姿です。また、城山小学校の教職員が嘉代子桜の由来と平和の願いをいつまでも語り継ごうと 「嘉代子桜」と刻んだ碑を建てました。


「平和祈念館」 (被爆校舎の北側の奥)

●旧北校舎の跡地に建てられ、被爆後の写真や遺物を展示しています(学校被災写真60枚、校区被災写真60枚、放射能の影響を受けた植物写真10枚などが展示されています)。また、訪れた修学旅行生が被爆の状況について、被爆者から聞き取り学習する場ともなっています。