●1950年7月の長崎市原爆資料保存委員会の発表では、死者73,884人重軽傷者74,909人、罹災人員12,820人(半径4キロ以内の全焼全壊の世帯数)、罹災戸数18,409戸(半径4キロ以内の全戸数、市内総戸数の36%)、全焼11,574戸(半径4キロ以内、市内総戸数の約3分の1)、全壊1,326戸(半径1キロ以内)、半壊5,509戸(半径4キロ以内)と推定されています。ただし、これは原爆投下直後の市人口を(大体21万人前後)と推定したものです。

爆心地からの距離(km)

0~0.5

1.0~1.5

1.5~2.0

2.0~2.5

2.5~3.0

3.0~4.0

4.0~5.0

死亡率  (%)

広島

96.5

83.0

51.6

4.9

2.7

2.5

1.1

死亡率  (%)

長崎

88.4

51.1

6.4

2.1

1.2

0.7

被爆前の建物数

全壊全焼

全壊

半壊・半焼・大破

広島

約76,000

62.9%

5.0%

24.0%

91.9%

長崎

約51,000

22.7%

2.6%

10.8

36.1%

●1976年、長崎市と広島市が国連事務総長に提出した報告では、「長崎では27〜28万人が直接被爆し、うち約7万人(誤差プラスマイナス1万人)が1945年末までに死亡し、1950年末までの死亡者を含めると、広島が約20万人、長崎が約10万人をそれぞれこえていると推定されています。また、広島・長崎を襲った原爆は、日本人だけでなく、数万人の朝鮮人、数百人の中国人さらに数百人の連合軍捕虜、数十人の外国人市民を襲ったのです。

●三菱造船所では、捕虜として収容されていたオランダやオーストラリアなどの連合軍の兵士たちが、被爆し、爆心地から200〜300メートル離れている浦上刑務所では受刑中の中国人32人(他に被爆前1名)、朝鮮人15人(推定)全員が即死しました。

捕虜収容所内部の様子