長崎県立長崎工業学校(原爆被爆記録写真集より)

●山里小学校の横を上がると、左斜め前に南山学園中学・高等学校があります。県立長崎工業高校が以前ここにありました。

 被爆当日、井上彌人校長以下、職員29人、生徒198人、計227人が原爆で亡くなりました。(これは学校だけでなく、自宅などでの死亡者も含みます。)

 戦争が終わり学校は一時、大村市に移りましたが、死亡した1年生の小浜満くんのお父さんが、わが子と長崎工業学校の生徒・先生の供養のため、弔魂碑を建立しました。

 1950年、県立長崎工業高等学校となり、学校は再び長崎市に移りました。1969年、弔魂碑はもとの上野町の学校跡である南山高校の校庭に移転することになりました。

 碑の横には、井上校長以下227人の名前が刻まれています。