山里国民学校(被爆当時) 『原爆被爆記録写真集』より


● 爆心地公園から国道を北に歩き、大橋の信号から右に坂道を上ると、左手に校舎がみえてきます。現校舎は1988年に建てられた洋館風の赤レンガのモダンな建物ですが、旧校舎は1932年に建てられた鉄筋コンクリートの3階建ての校舎でした。 被爆当日、学校には教職員、用務員など32人がいて、3人が即死、他の人も次々と死亡し生き残ったのは、4人だけでした。児童は夏休みだったので家などで被爆し、全児童数1581人のうち、約1300人が死亡し、生き残ったのはわずか300人たらずでした。
 被爆の証しとして、旧校舎の階段の手すりと柱、裏門の門柱などが残っています。階段の手すりは、新校舎に設けられた平和記念館に展示されています。
 裏門の門柱は高さ1.5m、1対の門柱で片方だけを学校に残し(防空壕の左側)、もう1方は原爆資料館に保存されています。


●証言(『原子雲の下に生きて』より)
 「すぐ近くの防空壕を掘っていた。つるはしを置き、斜面の長さを測ろうとした時、爆音を聞いて慌てて壕の中へ入った。次の瞬間、たくさんの雷がいっぺんに落ちたような音がして熱風が吹きつけた。数分後外に出ると、青空がなくなり、真っ暗になっていた。
 同僚の教師は全員なぎ倒され、吹き飛ばされていた。衣類は脱げ、焼けただれた皮膚が垂れ下がっていた。即死を免れた教師に水を、食料を、と駆けずりまわった数日間、あまりに死者が多すぎて涙を流す暇さえなかった」

                  (林英之先生 当時、山里小学校教師、26歳)

 「ピカッーと光ってしまった。そして僕は、強い風で、壕の壁にたたきつけられた。しばらくして、僕が防空壕の外をのぞいてみたら、運動場一面に、人間がまいてあるみたいだった。」

(辻本一二夫さん、当時5歳)  


  山里国民学校防空壕跡
           (新校舎の北側裏手に残る防空壕)


●校舎(旧運動場)の東側と北側の崖には1944年から45年にかけて、18カ所の防空壕が掘られていました。当時、この壕は近くの浜口町、上野町の住民が避難所に利用していました。戦後、防空壕はいくつか残っていましたが、その後埋められて、1カ所だけ「2度とこんなことがないように、平和への決意と平和を語り継ぐ場所として」この防空壕が残されたと、説明板に記されています。
 (右の写真は、2000年度に改修工事が施される以前のものです。)


  あの子らの碑(正面玄関前方の築山中央にある石碑)


●おかっぱ頭でモンペをはき、原爆の業火の中でひざまずき、天に向かって合掌している少女の碑があります。この碑は原爆で死亡した同校の教師や、児童とその両親、兄弟、の霊を慰めるとともに、永遠の平和を願って建てられたものです。そして、当時病床にあった永井隆博士の発案により、同校児童も寄稿した被爆手記集『原子雲の下に生きて』(1949年8月、講談社刊)の印税と博士の寄付金により1949年11月3日に建立されました。以来、山里小学校では、毎年11月2日に「あの子」の歌を歌っています。

レリーフは大司星七氏の作で、「あの子らの碑」の文字は永井博士の揮毫(きごう)です。

「あの子」
 (作詞・永井隆 作曲・木野普見雄)
壁にのこったらくがきの
         幼い文字のあの子の名
よんでひそかに耳すます
          ああ ああ
あの子が生きていたならば