●1945年4月、ルーズベルト大統領は急死し、副大統領であったトル
ーマンが大統領に昇格します。同年5月、スチムソン陸軍長官を議長とする大統領諮問機関の暫定委員会が原爆の対日使用について、

 1.できるだけ早く日本に対して使用すること。

 2.原爆は二重の目標、つまり民家に囲まれているか、これに隣接する軍 事施設や軍事工場および打撃に最も弱い他の建築物に使用すること。

 3.降伏勧告の強行を意味するような明白な事前警告なしに使用すること。

という三項目の覚書を決定しました。

●この決定がマンハッタン計画に参加している科学者の間に波紋をよび、フランク委員会のように、「原爆を日本に奇襲的に使うことによって、米国人の生命を救う目的は達し得るとしても、それは世界全体にわたる恐怖の波紋をひき起こす」という趣旨の無警告の原爆使用批判の勧告や、シラードら68人の物理学者たちの同趣旨の請願書も出されました。しかし、それらも大統領には届きませんでした。

●こうして、原爆投下作戦は中止されることなく進められ、7月23日、原爆投下目標選定委員会は、広島・小倉・新潟の順で原爆を投下することを決めました。
 しかし、翌24日、終日論争が続いたあとで、第4の目標として京都に代わり長崎が追加され、翌25日、ポツダム滞在中のトルーマン大統領の命令を受けたC・スパーツ戦略航空司令官より、広島・小倉・新潟・長崎の4都市への原爆投下命令が発せられます。


●そして、翌26日、海と空から原爆が西太平洋マリアナ諸島のテニアン島アメリカ軍基地に運び込まれました。さらに8月2日、新潟は遠いという理由で原爆投下目標からはずされ、在グアム第二十航空司令部による8月6日の広島攻撃の作戦命令が出されました。